このニュースが話題になっていました。
聴覚障害の作曲家として、作曲したCDが18万枚売れ、広島市の市民賞も取られた方が、実はご自身で作曲をしていなかったというものです。なぜこのタイミングで公表したのか?ということについては、
「現代のベートーベン」佐村河内守氏のゴーストライターが語った! | スクープ速報 - 週刊文春WEB
週刊文春がスクープとして報道することが想定されたため、事前に公表したことが考えられそうです。
この発表を受け、予定されていたコンサートの中止、(音楽配信のフェイスによって子会社となることが有力な)日本コロムビアではCDの販売中止、自伝を出版していた講談社・幻冬舎が絶版に、ドキュメンタリーを報道したNHKが謝罪するなど、余波が広がっています。
それ以外にも、楽曲のファンと見られる方が「騙された」と憤っていたり、一方では、「楽曲それ自体に罪はない」「作曲家は違うけれど曲はいい。曲が評価されていたのではないか?」という議論もネット上では見かけました。
この記事では、これらの議論に対して、「曲ではなく、曲が提供されるまでのストーリーに付加価値を見出す人がいる」という話を書いてみます。
恐らく、同じようなことを考えられたり、書かれている方は多数いらっしゃると思います。タイトルやここまでの流れでピンとくる方はそっ閉じを推奨します。目新しい話はありません。
"ストーリー"がプラスアルファの評価に
この方が関わった曲に、消費者がどのような価値を見出していたかを確認するために、Amazonのレビューを見てみます。(ご想像の通り、既に荒らされています。)
- アーティスト: 佐村河内守,大友直人,東京交響楽団
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2011/07/20
- メディア: CD
- 購入: 7人 クリック: 39回
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5つ星評価のうち、楽曲以外について触れられている方を中心にピックアップしていきます。
83 人中、49人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5つ星のうち 5.0 すげぇよ、この人は!!,2013/4/2 Byアル "ミーコ" (大阪) - レビューをすべて見るレビュー対象商品: 佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA (CD)自分はオーケストラを聴きません。洋楽も聴きません。
アニメやゲーム、映画くらいです。
音楽は世界の共通語、なんてよく聞きますがそんなのは嘘だと信じていました。
言葉が分からなければ提供者の意図が分からないし、共感出来ないからです。
勿論、名曲とされるオーケストラや洋楽も聴く機会はこれまでありましたが、使われる映画であったり、アニメの話が良かったからで、決して音楽だけの手柄ではありません。
だから、純粋に音楽だけで何かが伝わる事などありませんでした。
正直このCDを買ったのはNHKスペシャルを観たからです。
なので正直驚きました、映画一本見終えた後に残る一番印象的なシーンでかかる音楽レベルの音が流れ続けていることに。
音を重ねているだけで情景や雰囲気が伝わってくる何か壮大な物語を見せられたそんな錯覚に陥りました。
細かい技法とか演奏の素晴らしさなんてのは自分には分かりません。けれど、こんなに情感を刺激され、音が変わる度に思い描く風景が変化するなんて事が自分の身の上にふりかかるとは夢にも思いませんでした。
NHKスペシャルをご覧になって購入された方。オーケストラは聞かないけれど、情感が刺激されたそうです。
40 人中、22人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5つ星のうち 5.0 たましい,2013/1/12 ByAmazon.co.jpで購入済み(詳細)レビュー対象商品: 佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA (CD)
気もち的には正座をして聴いているような心構え。
自然に目を閉じて、心が洗われていく。
佐村河内さんの生い立ちを聞くと、これは魂で作られているのが納得します。
評価もすること自体申し訳ない感じです。
生い立ちを知っているためか、正座して聞かれたそうです。
42 人中、22人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5つ星のうち 5.0 普遍的価値を持った偉大な名曲,2013/5/11 ByAmazon.co.jpで購入済み(詳細)レビュー対象商品: 佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA (CD)
この交響曲は間違いなくクラシックの歴史を塗り替える偉大な名曲になります。
きっと、数百年後の音楽の教科書にはこう書かれているのではないでしょうか。
「12音技法や無調性音楽といった当時の"現代音楽"が台頭していた21世紀初頭において、あくまでマーラーやブルックナーを彷彿させるようなロマン主義的で古典的な作曲技法を貫いた佐村河内守という日本の作曲家が交響曲第1番≪HIROSHIMA≫を突如発表し、逆説的ではあるがそのあまりに独自性溢れる音楽に世界中が陶酔した。」と。
何度聞いても飽きることはありませんし、むしろ新しい発見の連続でどんどん好きになります。80分もの長大な作品があっという間です。このような感覚は初めてのことです。
ただ、クラシックに詳しい人が初めてこの曲を聴くと次のように感じることもあると思います。
「マーラー、ブルックナー、ストラヴィンスキーなどをごちゃまぜにしてかつゲーム音楽のような要素も取り入れたただのモノマネ音楽にしか聞こえない。本当にいい曲なのか?」
確かに作曲技法は似ているところはあると思います。ただし、完成されたこの音楽そのものはゆるぎない独自性と独創性を備えており、音楽そのものの価値からすれば作曲技法が似ていることはなんら価値を落とす要因にはなりえません。
私もこの交響曲を1回聞いただけでは良さが分からず、昔の作曲家のモノマネみたいで、正直オーケストラがやけに重厚でうるさいし、でも3楽章最後のコラールのところだけがとにかく綺麗で感動的といった印象しか持ちませんでした。
しかしながら、何回も聞くうちにこの交響曲が備えている緻密な構成、巧みなオーケストレーション、普遍的なメッセージ性に圧倒され、今では心底素晴らしい名曲中の名曲だと感じるようになりました。涙も自然と出てきます。これは普段でしたら絶対あり得ません。個人的には特に2楽章のちょうど30分経ったころのホルンの切ないメロディーとその後に再度トロンボーンと鐘でそのメロディーが繰り返されるあたりが毎回胸が締め付けられます。佐村河内守さんの嘆きが聞こえてくるようです。
はっきり言ってここまでの感動はクラシック界でも特に名曲といわれている、マーラーの交響曲第1番や第5番、ブルックナーの交響曲第7番、第8番、第9番を聞いた時にもありませんでしたし、そもそも人生の中で聞いた音楽の中でも無かったと思います。
ここまでのヒットに至った理由にはNHKでの紹介はもちろん、苦難に満ちた半生、HIROSHIMAという分かりやすい副題のおかげもあったと思います。ただ、聞くきっかけがどうであれ、曲そのものが持つ圧倒的で普遍的な力があるからこそ人の心を惹きつけて止まないのだと思います。
少々厚かましいのかもしれませんが、私はこの偉大な交響曲が早く世界中に知れ渡り、世界中の人々とこの感動を共有できる日が来てほしいと切に願っています。
モノマネと思いきや、何度も聞いていると作曲家の嘆きが聞こえてきたそうです。
44 人中、22人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5つ星のうち 5.0 震災の受難から復興しようとする日本・東北の人々への励ましのメッセージかも。,2011/7/20 ByTomomi Murayama (千葉県市川市) - レビューをすべて見るレビュー対象商品: 佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA (CD)
発売日の本日、Amazonより届き、早速聴きながら書いております。
不思議ですね、重厚で深刻なメッセージ性のある大曲であるにも関わらず、聴いていて、何故か、安らぎを観じます。
終楽章の録音セッションのラストもラストで、震災後の大きな余震の揺れに遭っていたことは、偶然とはいえ、不思議な天からのメッセージを観じます。そしてそれがこのCDにそのまま収録されているというのです! しかしCDではその様子 (揺れによる音の変化、歪み、ノイズなど) は全く感じられません!。
震災の僅か1か月後に録音され、4か月ちょっとしか過ぎていない今日、発売されたこのCD。
本来のヒロシマのメッセージと共に、震災の受難から今まさに復興しようとしている日本・東北の人々への励ましメッセージにも観じられました。
これが21世紀に生まれ、音源化された交響曲だなんて、気づかない人も多いかもしれません。
作曲者が被爆二世であること、それが原因の!? 全聾(当然この名曲を彼は一度たりとも聴いていない!!)、鳴りやまぬ頭鳴症…… といったことで同情票を入れられることを、作曲者・佐村河内氏は決して望まないと思います。
ですから純粋に、マーラー、ショスタコーヴィチの流れを踏襲する交響曲として楽しませていただいております。
現代においては、確かに異端の作品でしょう。
作曲者が音楽大学への進学を望まなかったわけも、わかります。
音大の作曲科ではこういう曲の書き方を学べないでしょう。時代遅れの陳腐な楽式の音楽なんて、教授たちは見向きもしないかもしれません。
ですから現代のどんな作曲コンクールにも、恐らく、絶対に入賞することはないでしょう。
なぜか。それが現代音楽の権威・アカデミーの在り様から逸脱しているから。
調性のある音楽ということ。交響曲≒ロマン派を踏襲したある意味時代遅れの音楽。それに私が聞いていても、「これってマーラー!?」などという模倣が感じられること。
そのため恐らく作曲のコンクールでは、審査の対象から即刻外されてしまうことだと思います。
だけど、権威って、何!?
本当に素晴らしい、感動を与えてくれる、このような作品は、それら現代音楽の権威を遥に超越してしまっている気がします。
権威に理解されない、権威に排斥を受けてしまう(音楽だけの問題ではありませんが)。
しかし楽団員や収録スタッフ自らが感動してしまったとのこと。それは本物である証。
「心からの感動」こそが音楽のいのちであり全てだと思う。
だからこそ、この交響曲“HIROSHIMA”は、本物。
是非、ベルリン・フィルでも、N響でも、演奏してほしいものです。
そして、ヒロシマの悲劇を忘れるな! という作曲者の身体を張ったメッセージがこの交響曲を通して後世に伝わりますように。
現代の音楽教育のルートから外れたから生み出された作品とされています。
これ以外にも、NHKを見て購入したことを書かれたり、この方の人生についてレビューで書かれている方は多数いらっしゃいます。そして、全体的に見ると、荒らされている中でも、評価は非常に良い。
※2014年2月6日現在のAmazonでのレビュー結果
Amazonのレビューを紹介したのは、このような感想を書かれた方々のセンスを批判するためのものではありません。この方の人生に感情移入し楽曲を評価されている方が実際にいらっしゃることの例示となります。楽曲に限らず、この方の人生の物語に価値を見出したと思われる方がいたわけです。
何もAmazonにかぎらず、Blog上でも同様の感想は確認することができます。
佐村河内守 blog HIROSHIMA - Google 検索
"ストーリー"が消費される
では、このように、その物自体に限らず、その物ができるまでの物語、ストーリーが評価されている例は他にはあるでしょうか。
アイドルCDは顕著な例かもしれません。曲を消費する目的では布教用を考えてもせいぜい3枚ぐらいあればいいのに、10枚~20枚と購入する人がいる。「頑張っている彼/彼女を応援したい」という思いで、そのアイドルに関するどんなエピソードも漏らさず消化しようとする。
こういったものは、何も商品として販売されているものに限りません。夏の甲子園では球児たちに関するエピソードは過剰なぐらい報道されますし、オリンピックのメダリスト候補の私生活も競技と関係がないのにパパラッチされたりします。
そういったエピソード、ストーリー、物語は、直接的な消費物である、音楽・映像・文章・演技・競技からすれば添え物であるものの、それがあるからこそ、消費物が魅力的に感じることはあります。
"ストーリー"の創作の露見は消費物の価値を大きく損なうことがある
添え物であるストーリーと、消費物がどれくらいの割合で最終的な評価を決めているかは、その作品によっても、その受け手によっても異なります。
ただ、ストーリーを過剰に宣伝し、そのストーリーがあるからこそ消費物が映えるような場合、ストーリーがその消費物の前提となっている場合だと、そのストーリーが、創作・釣り・誇張であることが発覚した時に、消費物自体の価値が大きく毀損することがあります。
仮の話として、誰とも付き合ったことがないと言っていたのに実は彼氏がいた、無農薬・無肥料という話だったのに実は農薬・肥料を使っていた、脳性麻痺の子供の文章は実は母親が作文していた等々ということが、もし万が一、ありえないことだとしても、起こったとすれば、消費物自体のパフォーマンスに対する非難がある可能性は想像ができるのではないでしょうか
今回のケースでは、音が聞こえないのに、普段耳鳴りで苦しんでいるのに作曲ができるという話でした。それが、実は作曲はしていなかったとすれば、正にこのような、ありえないことが起こった、消費物の前提条件であるストーリーが崩れた事例と言えるのではないかと思います。
締め
作れば売れる時代ではなくなったというのはもうずっと前から言われてきたことです。それをどうにかするために、ストーリーを提供し、消費物の付加価値を高めようとすることは、消費者が価値を感じる限り、決して否定されるものではありません。
しかし、嘘のストーリーを設定し、それが露見してしまうと、ストーリーに依存しすぎたために、結果として消費物全体の価値を貶めることに繋がりかねません。(恐らく、難聴の作曲家は今後日本では取り上げられにくくなる可能性があります。)
ストーリーを売るのであれば、そのストーリーも、商品と同様にリコール対象とならないように誠実に作り上げる必要があるというのが、今回のケースでの供給者視点での教訓ではないかと考える次第です。
以上です。以下、余談です。お好きな人だけどうぞ。
"ストーリー"の創作をどこまで意識するか
"ストーリー"を楽しむことに重点を置く人からすると、嘘が発覚した時点で、その消費物は消費対象ではなくなります。
一方で、最初から、その物語に、創作・釣り・誇張があることを理解したり、推測した上で楽しむ人間は、ストーリー成分の加点をつけなかったり、ストーリー成分をメタな観点で消費しようとするため、ストーリーについて嘘が発覚した後でも消費物自体を楽しむ姿勢を見せます。
どちらが良いか悪いかではなく、消費者として"ストーリー"をどう消費するかのスタイルの違いでしょうか。
topisyuは、"真実の物語""感動の実話"などという前ふりを見聞きした時点で、その消費物には価値がないのではないかと疑います。消費物の本来の価値が乏しいから、誰かの手によって、消費物が過剰にデコレーションされていると考えるからです。
余談:『物語消費論』
"物語"を消費と書くと、大塚英志さんの『物語消費論』と言葉の定義が被りそうなので、"ストーリー"を消費と言葉を変えました。
確か、『物語消費論』は、ガンダムみたいに表に出ている話以外の背景に流れる壮大なサーガ・設定が消費の対象といった話だったように記憶しています。(間違っていたらごめんなさい。)これが転じて、記号論やデータベース論に展開されたんですよね?
以上、余談でした。