斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

「親ガチャ」は存在していて、個人の努力で解決するものじゃない派

本当かどうか分からないんですが、親ガチャって言葉が流行っているらしくて。意味は、ソーシャルゲームのガチャになぞらえて、どんな親の下に生まれるかもガチャガチャみたいで運の要素があり、それでスタートが随分違うってことっぽいです。

最近はうちの子どもたちもガチャの概念を覚えていて、「最初にいいカードが引けないならリセマラするといいってYouTuberが言ってたよ」とウマ娘をやっている私に教えてくれたりしました。リセマラはリセットマラソンで、ゲーム内でいいアイテム・カードが出るまでリセットを繰り返すという意味です。

この親ガチャという言葉がそれなりに支持を得ているのは、日本社会で経済格差・教育格差の固定化があり、親の学歴・経済状況次第で子どもの人生が大きく決まってしまうという社会背景があると分析する人がいるとか、いないとか。

中には、「親ガチャなんて存在しない」とか「親ガチャと嘆くのは甘え」みたいに、言葉や伝えたいことを否定する人もいるとか、いないとか。

流行り言葉ではありますが、せっかくなので私もこの言葉に関連して思ったことを少し書きます。

まず、私は「親ガチャ」という言葉が示す事実は存在していると考えています。というか、もう何度も富の偏在と教育格差のスパイラルが存在していることは根拠とセットで紹介していますから、ブログ読者の皆さんからすればそりゃそうだろうと思われるでしょうが。

日本でも教育格差があることを知りたい人は松岡さんのこの本を読んでみてください。

次に、親ガチャの要素は人生にあるとして、それを社会としてどう取り扱うかという観点では、私はこれも言うまでもないですが、個人の問題としないほうがいいというスタンスです。

中には自身の努力で親ガチャのスパイラルから逃れられた人もいるかもしれませんが、そういう人が当たり前にいるんなら、教育格差も富の偏在も長年固定化していません。

格差が固定化しているのを否定しているならまだしも、格差が固定化しているのが事実だと認めているんなら、解決策を"主に"個人の努力にするのは、結局格差の固定化がOKって言っているのと同じだと私は考えています。

努力を過信しすぎです。

「お前は何者にもなれない」「どこにもいけない」と子どもの頃から何度も刷り込まれて、心を折られ続けてきた人は自分の苦境を脱するための努力をする基礎体力がありませんから。努力をするのは、努力を認められ続けたほうがよっぽど楽にできるんですよね。習慣ですから。

ここから一気にn=1。

私たち夫婦はともに学歴があり、経済的にも豊かですが、私の子どもたちは、毎朝勝手に六時半に起きて、勝手に勉強して、用意された朝ごはんを毎日食べて、学校に通っています。毎日何かしらの本を読んでいます。西尾維新さんの物語シリーズの一冊を一日で読破することができるぐらいの読書家です。そういうのを見て、私は日々自分が格差の固定化を作っているなと感じながら子育てをしています。

私が子どもの頃に、学校で勉強しないで外でガラの悪い人と遊んでいる子は結構いました。その子たちは軒並み家庭環境は恵まれていませんでしたね。親御さんは大学は出ていないし、子どもの勉強は見ている気配はありませんでした。

ある子からは、母親が水商売で"パパ"を定期的に家に連れてくるから、家が落ち着ける環境でないとか、そういう話を聞いたりしました。割れた窓をダンボールで塞いだ、その子の家で女神転生をプレイしたのはよく覚えています。

n=1から戻ります。

私は選択的夫婦別姓制度もそうですし、同じような主張をずっと表明し続けています。理由は簡単で、世の中がそんなに変わっていないからです。選択的夫婦別姓制度は相変わらず導入される気配がないし、格差の固定化は解消されるどころか強まっているぐらいの状況です。

今の自民党総裁選では、経済格差を解消するための資産課税的なものを提案している候補が結構いるし、立憲民主党は以前からそのスタンスです。とても良いので、あとは実践されるのを期待したい。

個人が生きる上では自分にできる部分での努力をするほうが、望む環境を得られやすいのは事実です。それとは別に、努力できない人に支援を差し伸べられるのが当たり前の社会になってほしいので、私は同じようなことをこれからも何度も表明し続けるつもりです。

今日はこんなところです。