斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

「息子には少年ジャンプは読ませない」という親の中には「私には性教育の正しいフォローができない」という不安がある人がいると思う

週刊少年ジャンプのとある漫画が話題になっています。

ジャンプお色気♡騒動。【法律家版】 - Togetterまとめ

ざっくりまとめると、

  • 巻頭カラーで主要女性キャラが少年誌で許される範囲で全裸で恥ずかしそうな顔で掲載
  • これを見た人が「女性をモノとして扱っている」「性暴力を助長するもの」と批判
  • その批判を受けて表現規制の議論に展開

という感じです。最近よくある流れですね。

少年誌に掲載された性描写や裸が議論になるのは、それこそ手塚治虫さんや永井豪さん絡みで昔からありました。今とちょっと違うかなと思うのは、昔は「子どもに性描写は見せるものではない」という論でいきなり焚書坑儒なノリだった気がするところ。今は性描写が一律Noというより、性描写のあり方も一緒に議論されている感じがします。

 

子どもはフィクション作品の影響をある程度は受ける

この話での私のスタンスは、紙屋研究所さんとほぼ同じです。

「ジャンプお色気♡騒動」に思う - 紙屋研究所

ざっくり言えば、

  • フィクション作品を子どもがそのまま真似ることはないが、ある程度の影響は受ける
  • 表現の仕方を批判するのはありだが、批判はロジカルに

という感じですね。もう少し書くと、

  • 表現を批判するのはあり。ただ「表現をするな」はなし
  • "表現の批判"という表現を批判するのはあり。ただ「"表現の批判"という表現はするな」はなし(以下、入れ子構造で続く)
  • 表現を見たくない人のためのゾーニングは大切

という考えです。

ゾーニングに加えて、歴史的な文脈から相当気を使わなければできない表現もあるのは事実なので、表現をする機会がある人(今時はFacebookでもTwitterでも表現できるので、ほとんど誰でも)は、理解しておいたほうがいいことはあります。

ヒトラーの経済政策「正しい」発言に国際的な非難-日銀が謝罪声明 - Bloomberg

 

フィクション作品と上手く付き合えている親

話は変わって、子育ての中でのフィクションの取扱いについて。

先ほど紹介した紙屋研究所さんは、実際に子育てをしていて、自治会やPTA活動にかなり造詣が深く、無料塾で他人の家庭の子どもに勉強を教えていたりします。 この辺は私も強い関心があるため、以前からブログは読ませてもらっています。

「格差は教育費無料でも広がる」のか - 紙屋研究所

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

 

※紙屋さんの新刊。前著は『“町内会"は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~ 』

紙屋さんは、私の中では、以前この記事でも紹介した、

日常の一つ一つの会話・出来事で勉強が好きな子・できる子が培われていく - 斗比主閲子の姑日記

しんざきさん(ブログ→不倒城)と同じく、「n=1だけど、この人の子育て観は信頼できる!」フォルダに入っている人の人の一人です。他には、北沢かえるさん(ブログ→北沢かえるの働けば自由になる日記)もそう。北沢かえるさんのブログは雨宮まみさんが紹介していたので、読むようになりました。

で、この流れで何の話をしたいかというと、子どもが表現から必ずしも好ましくない影響を受けそうになったときに、親がどこまでフォローできるかは、親それぞれだということです。

たぶん、紙屋さんやしんざきさんや北沢かえるさんのような人だと、上手く子どもに話ができると(勝手に)思ってます。全員フィクション作品大好きな人たちでもあります。(大好きを超越している)

 

「私にはフォローができない」という不安がある親

でも、そうではない親は世の中に結構いるんですよね。たとえば、最初のジャンプの作品について、こんな反応をしている人もいる。

最初に紹介した焚書坑儒のノリです。これって、親が子どもの付き合う友達を選別するのとかなり近い。

子どもの目に触れるもので、親がダメだと思ったものは、さりげなく排除していくというのは、どの親もある程度はしていることです。コンビニでビニール紐で束ねられた成人誌ゾーンの前を通るときは、子どもの注意が向かないようにするとかね(笑)

ただ、それがピーキーすぎて、「少年ジャンプ、禁止!」「ゲーム、禁止!」「あの友達と付き合うのは禁止!」となると、それはそれでマズくなってくる。子どもの自立の芽を摘むことに繋がる。

では、こういう親が、親として不適切かといえば、物事はそんな簡単ではなく。フィクション作品から物凄く影響を受ける子もいますし、セックスや暴力についての正しい知識を伝えられる親も多くはありません。子どもと信頼関係が築けていないと子どもは聞く耳を持たないし、ゆっくり一緒に話せる時間的・精神的余裕ももちろん必要です。

要は、子どもから"不快な"表現を排除したい親の中には、その表現のフォローしきれないと思っている人がいるということを言いたくて。不安な親はいるんですよね。

だから、表現が適切かどうかの議論と同時に、親がどうやって子どもにセックスや暴力を伝えるかというのもセットで話題にしたほうがいいと私は考えています。例えば、紙屋さんも紹介された『わたしのはなし』『ぼくのはなし』みたいな本に触れたりとか。 

わたしのはなし (おかあさんとみる性の本)

わたしのはなし (おかあさんとみる性の本)

 
ぼくのはなし (おかあさんとみる性の本)

ぼくのはなし (おかあさんとみる性の本)

 

※おとうさんと見ても、もちろん、いい本。

 

締め

表現の力って凄いですよね。

少年ジャンプ作品でいえば、キャプテン翼でサッカー、スラムダンクでバスケットボール、ヒカルの碁で囲碁、背すじをピン!とで社交ダンスを始めた子はたくさんいると思います。(さりげなく、『背すじをピン!と』をPR)

フィクション作品に限らず、浅田真央さんからフィギュアスケート、藤井聡太さんから将棋を始める子どももいます。

子どもが影響を受ける対象は、

  • 教師
  • 友人・知人
  • メディア

この大きく4つ。

単純に接している時間が長ければ長いほど影響力が大きいということであれば、もちろん親が強力になるはずなんですが、必ずしもそうではないんですよね。ひょんなことから子どもが何かを志すこともあり、親はフォローをするのにてんてこ舞いになったりします。

一方で、子どもは子どもの力で「ありえないもの」「真似しちゃいけないもの」を判断していたりもします。

私の視点では、アンパンマンがアンパンチを打ってhappy endというのはふざけた展開だと思っていますし、仮面ライダーやプリキュアはすぐに闘うんじゃなくて、もう少し相手と対話の方向性を探ってほしいし、どこでもドアでしずかちゃんの家のお風呂に侵入するのは完全アウトだと思っています。

子どもが、そういう作品に触れている横で「バイキンマンにも事情があるのに」「戦う前にまず誤解を解いたほうがいい」「人のお風呂を覗いちゃだめだよね」とか私が横で呟くと、子どもは「そんなのわかってるし!」と私の口を物理的に塞いでくるので、その都度「ごめんなさい、失礼しました!」と深く深く謝ります。

子どもの受け取る力を信じつつ、一方で、時に適切な介入を施すというのが理想なんだけど、なかなか難しいよなと思いながら、日々精進しています。あー、早く、任天堂のミニスーパーファミコンを子どもと一緒にプレイしたい!