斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

LGBT、障害、在日韓国・朝鮮人……いかにして多様性を理解するか

このニュースが話題になっています。

「ゲイだ」とばらされ苦悩の末の死 学生遺族が一橋大と同級生を提訴 www.buzzfeed.com

一橋大学のロースクールという場所を舞台にしていることがセンセーショナルな点ですね。法曹を目指している人間や、その育成機関がこんなことをするのかみたいな観点で批判されています。

Diversity

 

この記事にも触れる形で、いつもブログを読んでいる北沢かえるさんが、こんなことを書かれていました。

この広い世界いっぱい咲く花を - 北沢かえるの働けば自由になる日記

東大だけでなく、これは東京にある偏差値が高い大学や高校、中学全体に通じる問題だよなと。

これらの学校に入学するためには、学校以外で塾に通わせ、勉強だけに没頭できる環境を準備できる家庭に生まれなければ無理だと思う。要は、サピックスや日能研に小学3年生のころから通って、中学受験御三家に合格したら、そのまま、同じ学校の仲間と同じ塾に通うみたいなことをできる人らしか、いない。

記事の趣旨としては、東大でジェンダー論を専門にしている教授が「(東大では)ジェンダー観の多様性が圧倒的に足りない」とコメントしていたことを受け、北沢かえるさんご自身の娘さんと息子さんの進学に際し学校を見る限り、女子校はまだしも男子校では多様性を学ぶ機会が乏しいのではないかという感想を持ったというものです。

 

生物でも社会でも組織でも多様性があるほうが強いというのは、あまり異論はないでしょう。また、一個人でも多様性への理解があるほうが強いと(恐らく北沢かえるさんもそうだし)私も考えています。

  

私は最終学歴としては旧帝大を卒業していますが、高等教育を受ける前には、かなり多様な家庭環境を持つ子どもたちが集まっていた公立の学校を経験しています。友達のお父さんがヤクザで行方不明になったとか、お母さんが離婚してシンママになって水商売をしていたり。朝鮮学校が近くにあったためチマチョゴリを着ている子どもは見かけましたね。クラスに聴覚障害があった子がいた記憶もあります。(ファッションではない)同性愛の子は中学校にはいました。祖母と二世帯住宅に暮らし、認知症の介護も経験しています。そういう実体験や知識は確実に現在の私自身を作っています。

 

翻って、大学について。大学の同級生には灘、開成、筑駒などの男子校出身者がいました。彼らを見ていて、多様性に対する理解が著しく乏しいと思ったことはそんなにありません。灘出身者に「あなたは人生で苦労したことないでしょ」と言われた時には、「何を言っているんだ、こいつは。脳みそお花畑か」と思いましたけど。

 

私の観測範囲では、高学歴でなくとも多様性に対する理解が乏しい人は多くいるという印象を抱いています。ちょっといきなり話を広げていますが重要な話だと思うので。

 

東大生が女性への暴行事件で逮捕されると確かに目立ちます。東大生のジェンダー観がどうなっているのかと思うかもしれない。ただ、統計を取れば、女性への暴行事件で逮捕されているのは、東大生が特別に多いということはありません。学歴別の犯罪発生率に踏み込むのはかなり危ういですけど、多様性を理解できているのであれば、偏見なく、これも理解できると思います。

 

チマチョゴリを着て朝鮮学校に通っている子どもを見かけたことを書きました。その子たちを見て、「あいつら○○○だよね」「服を切ってやろう」と言っていた私の同級生たちが裕福な家庭で育っていたかと言えば、それこそ親がシングルだったりしましたし、現在パチプロをやっていたりします。こう書くと、差別は弱者が行うものだと言いたいように捉える人もいるでしょうが、そうではありません。差別は弱者でも行うということを言いたいのです。私がアニメや漫画が好きだということでいじめてきていたのは、親がネグレクト気味な子どもでした。大学では、アニメや漫画を読むことに対して、肯定的な人々がたくさんいました。


私は子どもの頃から人間関係をウォッチするのが好きでしたから、色んな人がいるのを見て楽しんでいました。でも、多様性があった同じ環境で育った高等教育以前の同級生が、多様性に対して寛容であったかと言えば、必ずしもそうだったとは思いません。「大阪や東京の共学でない中高一貫校出身者より、地方の共学の公立出身者のほうが多様性に理解がある」といって、全面的にそうだと言える人は多くはないと思います。

 

そういったことから、多様性があることを理解するのは、難しいことなのだと理解しています。人の親となった今は、子どもの環境から多様性を排除せず、親自身が多様性への理解を言動で示すようにしています。思えば、私の母は私がどんな友達と付き合うかに口出ししませんでした。我が家に呼ぶと家から必ず小銭がなくなっていた友達でも、その母親とも付き合いがあった。今思えば、母は偉大だったと思います。ちなみに、その友達の両親は不仲であり、母親は教育ママでした。

 

最後に、最初の記事のメタブックマークコメントの一つを紹介して終わりにします。

はてなブックマーク - 「ゲイだ」とばらされ苦悩の末の死 学生遺族が一橋大と同級生を提訴

当事者や一橋を責めて終わらせようとする人が多くて怖い。一橋が劣悪なのではなく一橋ですらこうだと考えるべき。日本全体にこうした無理解の種はある。誰かを悪者にして蹴り出す思考こそが無理解の源泉。

2016/08/06 03:33

どう考えるかは個人が各自判断するものであり、日本全体でそうだとは私には分かりませんが、誰かを一方的に排除しようとすることは確かに無理解に繋がると思います。