先日知人が亡くなったのでお葬式に行ってきました。以下は、出棺タイミングで泣いているその他知人を眺めていて思ったことです。
個人の日記です。
自分は特に普段の接点がない人が死んでも特に悲しむことはないんですが、どうしてかと考えてみると、接点がない人は自分の中ではもはやどうでもいい人(自分の中では終わっている人)に分類されているからなんですよね。
一般的に人が死ぬと、遺された人は「もっと話しておけば良かった」「あの人とはこんな楽しい思い出があった」という後悔だったり、感謝だったり、そういう思いが湧き上がってきて耐えきれず涙が出るんだと思います。
ただ、自分の場合、接点が元々なかった人について「もっと話しておけば良かった」なんて思うことはありません。もっと話しておきたいと思う人ならそれまでに積極的に話しているものですから。こちらから話そうとしていない時点で興味がない人なんですよね。
また、感謝の気持ちはあるけれど、それが涙に繋がることはありません。これも同じですけど、感謝は死んでから覚えるものではなく、死ぬ前から変わらず持っているもので、伝えたい感謝の気持ちがあるなら、死ぬなんてことが起きる前に伝えておくようにします。「あなたと同じ時代を生きられて嬉しい」みたいな言葉を普段から気軽に言うようにする。
たぶん、そういう風にしているから(そういう風に整理ができているから)、たとえ親族であろうと、もはや関係性が終わっている人については、その人が亡くなったという事実を知った時や葬式のタイミングで悲しく思うことはないんじゃないかなと考えています。
接点を持っている人は、まだまだ話し足りない人です。まだまだその人と作りたい何かがある。そういう人が死ぬともったいないなと思う気持ちがある。死という強制的な断絶に耐えきれないこともある。特にこれが自分の子供だとまた違う感覚があるでしょうね。(貫井徳郎さんの『乱反射』を読みながら)
ここまでがお葬式で思ったことです。その後、興味深い遺産相続の話が出たのですが、それはまた別の話。
話は変わりますが、この前2年ぐらいTwitterで仲良くしていた方がTwitterを止められると仰っていました。その時に自分が感じた感覚は、リアルにおける接点のある人の死に近いものがありました。
ネットの場合は、相手が死ぬというのはそんなにないことですから、接点がなくなるとしたら、相手が自分が利用しているサービスを止める時ですよね。止めるという宣言がなくとも、さりげなくフェードアウト(FO)しているのは特に不思議なことではありません。
ネット上でのコミュニケーションはリアルと同じように後悔しないようにやっているつもりでしたが、その人のTwitterの利用停止の話を聞いて自分の中に湧いてきたきたものを咀嚼してみて、もう少しできることがあればやっておこうと思った次第です。