この記事が話題になっていたので読みました。
『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状 | 文春オンライン
兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。
――「死体」を煮ているとは、あまりに突飛な誤読ですね!
石井 これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。
※太字はtopisyuによるもの
たまたま見かけた小学校の授業で、ごんぎつねが筆者の思ったように読まれてないことでもって、今の子どもたちに社会常識や人間的な感情への想像力が欠けているという話を展開する記事です。最終的には日本の子どもたちの国語力が崩壊しているというところまで持っていきます。
この記事は本の宣伝記事で、私は本そのものは読んでおらず、国語力という曖昧な言葉をどう定義しているか、また、崩壊していることをどう統計的に計測しているかは非常に興味があるところですが、それは置いておきます。
気になったのは、『ごんぎつね』について児童(小学生の子どもは"生徒"ではなく、"児童"が正しいです。私も児童・生徒・学生を間違いますが、国語力を憂う記事なのだから、筆者は正しく日本語を使った方がいいですね)が、
鍋でぐずぐず煮られているのは何かという先生の質問に、グループで話し合って、"「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたこと"を、"誤読以前"で、"社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている"と評している点です。
すでにSNS上で色んな意見が出ていますが、
『ごんぎつね』鍋で母の死体を煮ていると答えた小学生の話から、国語力の欠如を懸念する意見と子どもの想像力を全肯定する意見 - Togetter
私は、以下の点で話にならない評論だと思います。
- 国語で知識を問うのを問題視していない点
- 子どもたちがグループで話し合ったものを評価していない点
- 子どもたちがどうしてその答えを導いたか想像していない点
以上です。
まず一つ目。そもそも、この学校の先生が国語の授業で「鍋で何を煮ているのか」という質問をするのをまったく問題視していない点が気になりました。そういう形式の授業があるのは理解していますが、これで国語力は身に付くんですかね?
二つ目。実は単に知識を問うているわけではなく、グループで話し合いをさせているわけですから、先生はアクティブラーニングを狙っていた可能性があります。なのに、その話した結果を筆者は問題視していて、話し合うプロセスを評価していない。ヤバくない?
三つ目。自分が思っていた通りに子どもたちが答えていないことでもって、想像力がないとしていますが、どうして子どもたちがそう考えたか、筆者は一切想像をしていません。カチカチ山の婆汁、三匹の子豚の狼鍋とか、寓話の事例とか、ネタにしているかもしれない。児童に聞いたらいいのに、対話をしている気配もない。ありえなくない?
正直、n=1の事例、ここまで想像力を膨らませるのはそれはそれで凄いことだなと感心しますが、私は非常にイケてないなと思いました。
今、社会はかなり多様化しています。海外ルーツの子どもたちも日本の学校で学ぶようになってきていますし、子どもたちには知識の有無ではなく議論をして自ら答えを導き出すことが求められるようになってきています。
その前提で、100年ぐらい前の猟師の口伝という曖昧な時代設定の『ごんぎつね』の一シーンでの、ある問いに答えられないことが問題だとは私には思えません。
話は変わりますが、先日、次の動画を子どもたちと一緒に見ました。60年前の、東京の多摩区のひばりが丘団地を紹介したものです。見ていて、あまりの情報量の多さにくらくらしました。
道路は土、洗濯機の脱水は手動、家事はすべて女性、子どもの前でタバコを吸う、便器は和式、ガス中毒当たり前、断水は基本、ごみは即焼却などなど、今とは生活様式があまりにも違います。これがまだ60年前の話です。
※今では見られなくなった、子どもの前でタバコを吸う大人
子どもの疑問に答えつつ、私も色々と思うところがありました。買い物の様子は、現代ロシアの田舎町の市場と実は変わらないなとか。
何でこういう動画を紹介しているかというと、社会常識が何かというのはそんなに簡単には語れないということです。
2022年の現代と、60年前の日本の団地の生活様式と、ごんぎつねの100年前の日本の農村の生活様式とではあまりに違いがあります。すべてを理解しているのが当然とするとなれば、膨大な知識の吸収を子どもに求めることになります。
一方で、今は、世界中の情報があっという間に手に入る時代です。知識量は価値が薄れ、膨大な情報から取捨選択と活用が求められるようになっています。
筆者は国語の授業で子どもたちにごんぎつねから100年前の農村の生活様式を知ってもらいたいようですが、私は、自分の子どもたちにそんな目的の授業は受けてもらいたくありません。
それをするぐらいなら、ありえないぐらいヤバくてイケてる世界のYoutuberの動画を子どもと一緒に見ます。
※このジャンルなら新井紀子さんのアプローチがお勧め