斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

混沌の中で生きる子どもたち

先日、子ども絡みのトラブルがあり、複数人の子どもに事情を聞く機会があったのだけれど、何が起きたのかを正確に理解するのに相当に時間がかかりました。トラブル自体は「貸した」「いや、借りていない」みたいな単純な貸し借りトラブルです。

各家庭や学校ではやることがルーチン化しているし、文脈もおおよそ把握されているし、何より大人が管理監督者として見ているから、何が起きているかはおおよそ把握されます。おおよそ。

これが、子どもだけでのコミュニティ内での出来事になると途端に何が起きているかが分かりにくくなるわけです。ある子どもは自分が被害者だと言うけれど、よくよく話を聞いてみると、本人に強い被害者意識があるものの、どうやらその子の加害者性のほうが強そうに見える。一人の子どもの話からは何が起きたか全体像が分かりにくいから、複数人に話を聞く必要が出てくる。

複数人の話を聞いていて思ったのは、「何が起きているかおおよそ把握できている子と、そうでない子がいる」ということで。要するに、認知能力が低くて、「ケーキを等分に切る」ことができない子どもがいるということ。

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)

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  • 作者:宮口幸治
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※この話です。

いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのようにしたのかという5W1Hを複数人に聞くと、これらをある程度把握できていて状況が理解できる子どもがいる一方で、時間は曖昧だし、場所も正確に言えないし、登場人物も不確かだし、「何かが起きた」ということだけ分かっている子どももいる。年齢に関わらず。

そういう状況把握ができていない子どもは、トラブル以外の話を聞いても説明ができないわけです。親御さんに連絡しようにも、親の氏名や住所や電話番号が分からない。連絡していいかどうかも判断できない。

要領を得ない話をする子どもは、非行に至っているわけでもないし、学校生活も一応は問題なく過ごせているみたい。ただ、グラデーション的に言えば、ケーキを等分に切るのが苦手な子どもに近いだろうなという印象を受けました。混沌の中で生きている。

混沌の中で生きていると、誰の言っていることが正しいか、自分が不便を被ってているのかどうかもはっきり分かりません。

誰かから「あいつは嘘をついているよ」「あなたはやられたんだから、やり返さないと」と言われると、それを信じてしまう。また違う誰かから、「あなたにそう言った人こそ、嘘をついているんだよ」と言われると、また、それも信じる。こうして人に従うがままに、あっちゃこっちゃ駆けずり回って、結局何も得られないどころか、本人の評判は著しく低下する。

私が子どもの頃にもそういう子はいました。分かりやすく、悪い人間の使いっぱしりにされていた。

おおよそ年齢がが上がって発達度合いも高まれば、それ相応に状況把握もできるようになるわけですが、混沌に生きる期間が長いと、不便を被る期間も長くなるわけです。「そんなつもりじゃなかった」と思って犯罪に関与することもありえる。「荷物を運べと言われただけで、中身は知らなかったんです」は通用しない。

翻って、自分の子どもと接する上でも、5W1Hや主語述語目的語を省略せず話したり、聞くようにしたり、物事に前後関係があることを意識させるようにしたりするのは大事だなと思いました。

混沌の中で生きるのは辛い。