斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

着る服を悩まなくなったのは、見せたい・ありたい自分に悩まなくなったからだと気付いた

最近、着る服を悩む時間が減りました。季節が変わるとき、子どもの保護者会・面談に行くとき、仕事で人と会うとき、長年の友人と会うときなど、TPOによって服装は変わるもので、いざ行ってみたら「この服じゃなかったかも」と失敗したと思うことがあります。その、TPOに合わせてどの服を着るのかを悩む時間が減り、着ていった服が失敗だったと思うことも随分減りました。

私はこの状態がとても快適で、「長年生活してPDCAを回していった結果、自分の中で服装に関するセンスが磨かれたのだろう」と思っていました。

ただ、私のファッションセンスが良いと褒められることはそんなにないし、体型は落ち着いているしブランドもそんなに変わっていないから、センスがどうのというちょっと違う。

それで少し考えていて、「あー、そうか。服を選ぶ力も上がったかもだけど、見せたいand/orありたい自分に悩まなくなったから、服装でも悩まなくなったんだ」と気付きました。

Fashion Illustration

※Flickrって写真だけじゃなく絵も公開されているのか。fashionでの検索結果より

服装は、外の寒暖差から身体を防御するものという効果と同時に、当たり前ですが、自分をどう見せたいか、どうありたいかをアピールするための材料でもあります。子どもが小さいうちは自分がどう見られるかが分かっていないから親が選んだ服をそのまま着るけど、どう見えるか意識し始めると親の選んだ服を着るのは嫌がって、自分で着る服を選ぶようになる。

私の場合、自分をどう見せたいか、どうありたいかというのは、単にシチュエーションでcasual/formalを切り替えるだけではなく、その場にいる人が誰かでそのときそのときで変えるものだと思っていたから(場面ごとにペルソナが変わるのは当然だと思っていたから)、それに合わせて服装を変えるというのは、毎回一苦労でした。

それが、ここ最近は特に服装で悩む時間が減って、「ま、こんなものだろう」と考えて服を着ることが増えて、しかも、それで自分のイメージとのギャップに苦しむことも減ったので、随分気が楽になっていたのでした。

自分のイメージが固まっているから、どこに行っても、誰と会っても、決まったイメージを見せるというのが今限定の私の中での流行りかもしれないけれど、自分のイメージ自体が固まっているというのは悪いことじゃないと思うので、しばらくはこの服装との気軽な付き合い方を楽しみたいと思います。