斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

たぶん見られることを意識して書いた文章じゃないですよ

先日いつものようにエゴ・サーチしていたらこんなブックマークコメントを発見しました。 

「非公開記事と言いつつ公開されているとある文章について、非公開のつもりはなく見られることを意識しているだろうことを指摘して欲しい」ということです。

その文章とはこちら。


id:FalkyさんもTumblr時代からの読者からなのでご期待に沿いたいものの、自分の考えでは見られることを意識した文章だとは思いませんでした。

以下、理由を簡単に説明します。お好きな人だけどうぞ。

 

元の文章は全体的にあっちこっち話が飛ぶ上、主語や目的語を省きすぎて日本語も怪しいので、それだけで誰かの目を意識して書いた(読み手に対してフレンドリーに書いた)ものではないですが、見られることを意識したように見えないのは特に以下の箇所で感じました。

↑の発言はヤってない人のも普通に含まれてるけど、そういう事平気で言うてくる人達とも仲良く出来るくらいの寛大さが何故か私には備わってるみたいです。

 

「何であんな酷い事したのに友達でおってくれるん?」
とか言われた事もあるけど、これから先酷い事私にせんのやったらそれでええやんって思うんやけど。

 

普通の人はそんなん無理か。寛大とかそういう問題やないんか。私がおかしいだけか。
てか私と仲直りしたところで何のメリットも無いし。私みたいなつまらん人間は切り捨てるに限るんや。


だから酷い事した過去があっても、もっかい仲良くしようやって近づいた私と友達で居てくれる人こそ寛大なんや。
私が寛大なんやない。

短い文章の中で、

①自分に対して酷いこと言う人と関係を維持できる自分は寛大→②理由はこれこれ→③いや待てよ。私はつまらない人間だ→④ということは、つまらない人間とも友達でいてくれる酷いことを言う人の方が寛大 

とコロコロと話が展開していきます。ここの展開は、他人の目を意識しているなら、①と②で自分を寛大とするのはイマイチだと思うんですよね。

③と④は自分が価値の無い存在であるということの確認なので、これだけ抜き出せば読み手に「そんなことないよ!」と言って欲しいという誘導と受け取れなくもないんですが、①と②で自分のことを寛大と褒めちゃうと素直に受け取りにくくなっちゃうんですよね。自己評価が高い、嫌な奴に見えてしまうので。

だからここは読み手を意識して何かを受け取らせたいというより、自分の頭の中を整理するために文章にただ落としただけという見方のほうがすんなり解釈できました。

 

そもそも非公開ブログというのは、紙の日記や公開ブログの中間で、誰にも見せないで考えを整理したいけど、誰かに繋がっている感じを持ちたい(自分の中で客観視の要素を入れたい)から、その選択肢を選ぶんですよね。

だから、非公開ブログというのは読み手を多少は意識しているような文章になります。今回の元の文章に関しては、誰かを意識しているでしょと言えばそうだけど、その誰かが本当に実在している人間なのかと言えばそうではないんじゃないかなという印象を受けました。

 

話は変わりますが、一語一文に注意を行き渡らせて文章を書く人の場合、読み手を意識しているかどうかは比較的分かりやすいですよね。言葉が自然に入ってきて、多くの人が書き手の届かせたい解釈に気持よく辿りつけてしまう。

一方で、言葉一つ一つにそれほど注意を向けない人の場合、元々が読み手に対して優しくないところがあって、その人にとっての意図的なものとそうでないものの区別が他人からはし辛いことがあります。読み手の解釈の余地が多くなる。

 

自分は、書いた文章への他人のコメントを自分の他人への意識がどれだけあるかのパラメーターに使っています。書いたことを多くの人が誤解した時には、自分が読み手をちゃんと想定できていなかったのではないかとか、言葉を異なる定義で使っていたのではないかとか、自分が文章を書くときの姿勢にフィードバックするようにしています。誤解をしている人がごく少数ならやりませんけど。

物を適切に解釈したり、表現したりするのはコミュニケーションをする上でも、学習をする上でも基礎の基礎なので、こういうことの基礎練は欠かさないようにしたいと考えています。そんなわけで、公文といえば算数が有名ですが、子供には3歳から国語にも通わせています。

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