斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

少なくとも成人している、意思能力のある子どもの犯罪の責任は親にはないでしょう

ORICONのこの記事を読みました。

大竹まこと、会見で報道陣に逆質問 “公人の娘”のあり方を問う | ORICON NEWS

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大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし、矢面に立つ一方で、長女については「一般人」とし、今後の生活も見据えて守った。二世が逮捕される度に話題となる“親の責任”はどこまでなのか。結論は難しい。

二つの論点をまとめて書いちゃってるので分かりにくいんだけど、要は、公人の子どもは一般人なのか公人なのか、また、公人の子どもの逮捕に対する責任は親にあるのかどうか、という投げかけをしている記事です。結論は難しいとテキトーなことを書く前に、一度自分の頭を良く使って、整理して書いてほしいところです。

公人の子どもが公人か私人かの議論は置いておいて、私は、少なくとも成人している、本人に意思能力のある子どもが何かやらかしたとしても、親が公人であろうが私人であろうが、親には一切責任がないと考えています。

大体、日本では何かあるとすぐに親が引き合いに出されるんですよね。逮捕された人の親に記者がインタビューをして、謝らせるという報道は、卒業アルバムの写真を紹介するぐらい当たり前のことになっている。杭打ち偽装のときにも朝日新聞が40代男性の母親を謝らせていました。

確かに、子どもがどう育つかは親の影響はありますけど、子どもが大きくなればなるほど親の影響は薄れていくものです。友人・知人から得るものは増えます。

その上で、成人し、意思能力があるようなら、その人の言動は原則その人が責任を負うものでしょう。子どもの言動に親に責任があるということなら、成人しても子どもは自立していないと考えるようなものです。選挙権や飲酒や喫煙の自由があることを見直さないとバランスが悪い。

子どもがいくつになっても何かやらかしたのを親が責任を負わなければならないとしたら、いつまで経っても親は子離れできなくなります。そんなのは、親にとっても子どもにとっても不幸な話です。

会見の文字起こしを見ると、この会見に望んだ、(自称)公人の人が相当苦心していることは伺えます。それを、ORICONの記者は"笑顔ですごむ場面も見られた""自身の脇が甘かったことは認めた"とこの人に問題があるように書いた上で、挙句には、無邪気に"結論は難しい"で締めている。こんな文章を書いていることでもって「親の顔が見てみたい」と言われたら、この記者はどう思うんでしょうね。