斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

「寄り添う技術、相手をまず全面的に受け止める気持ちが私には足らない」

こんなTweetを見て、

このなないおさんという方に何かあったのかなーと思っていたら、エゴサーチで、id:c_shiikaさんのブックマークから、

はてなブックマーク - 合理的配慮は「ずるい」のか  - うちの子流~発達障害と生きる

関係ないけど "もやもやを抱えていらっしゃるのですね。" で一瞬トピシュさんの所かと思ってページを再確認した。

2016/05/21 16:23

この記事に辿り着きました。

"通りすがり"の方からの「障害のある子どもが通常学級で学んでいるのは贅沢ではないか。学習進行が遅れ他の子どもの可能性の芽をつむのではないか」といった趣旨のコメントがブログにあったことについて、発達障害の子どもを持つ親の視点で意見を書かれているものです。

これを読んで考えたことを書きます。例のごとく、お好きな人だけどうぞ。

Home Equity

※equity違い

 

このブログの記事が5/20で、最初のTweetが5/21の15:00ぐらいですから、そうすると5/21の7:30に私が公開した、 

この記事を読まれての感想が最初のTweetなのかなと考えられます。

 

なないおさんの先ほどの記事は理性的ではあるものの、憤りがあるようにも読めたようです。そういうコメントがいくつかありました。確かにそう見えるところはあった。この"通りすがり"の人のコメントについて受け止めきれず、そういう形の記事になり、それが、たぶん、私に"スズコさんの視点、トピシュさんの寄り添う技術、相手をまず全面的に受け止める気持ちが私には足らない。"というtweetに繋がったのかなと推測します。

 

私は確かにこの種の技術はそれなりに長けている方かなと思いますが、心底こういうことをしたいからそうしているというわけではなくて、繰り返しですけど、そういう技術とか、人の考えをそのまま受け止めておいたほうが、ほっこりできる、いい話が聞けるという利己的な発想があります。

なないおさんが以前に呟かれているように、

私は他人の人生を垣間見るのが好きで(主に匿名)、特に人間関係トラブルが大好きなのでインターネットを見ていますし、時に人生相談みたいなものに応じます。(他人の人生を背負うかどうかとは関係なく) 

 

私が持っているような寄り添う技術は発言小町を10年ぐらい眺めていれば身につきます。10年読んでいれば、苛烈な嫌がらせも、背中を押す応援も、寄り添う姿勢でも、どんな回答でもできるようになる。

相手を受け入れる方法・心の持ち方については何度も紹介している水島広子さんの本が参考になるかなと思います。 


それで、そういう私から、なないおさんが恐らく感情的になられた"通りすがり"の方からのコメントをどう見えたかについてもちょっと書いておきますと、

合理的配慮が学校を変える! - うちの子流~発達障害と生きる

通りすがり

同じクラスに障害者のお子さんがいます。
特別学級もありますが、
全く学習にはついていけなくても
クラスには在籍させたい(お母様のご希望で)
と聞きました。
合理的配慮で付き添いの先生も配置されました。
これは本当に子供の為なのでしょうか?
法律改正を盾にした親のエゴなのではないでしょうか?
特別学級でその子に合った学習をさせてあげたら良いのにと思う一方、この様な考え自体差別なのかと悩んでいます。
障害で差別される事は悲しい事だと理解はしていますが、
合理的配慮により、遠慮のないやって貰って当たり前的な考えには疑問です。
どう考えたら合理的配慮を心から納得出来るのかと悩んでいます。
障害のない子供達だけのクラスとそうでないクラスでは学習スピードも違うと思います。
なのでそれは将来医者になり障害者を助ける側になる可能性がある子のめを摘み取る行為にも思えます。
障害者にも可能性があるのは理解しています。
しかし障害者手帳により免除されている事も多いと思います。免除も受け、希望も出すのは少し贅沢な気がします。
障害のない子供達は免除のない人生を生きて行く為に学ぶ必要があると思います。
そう考えると皆んな違って皆んな良いという状態での授業は不適切に思えます。
養護学校の数を増やす、特別学級を増やす等の対応では不十分なのでしょうか?
普通の学校に合理的配慮を求めるのは正しいのでしょうか?

まず、パッと読んだ思ったことは、自分の子どもが自分の期待に沿わずあまり勉強ができていないことにモヤモヤしていて、恐らくは先生とは(いるとすれば配偶者とも)その子どもの状況について相談ができていないんだろうなと思いました。加えて、生活には余裕がなさそう。

この辺は、実態を把握していないにも関わらず、推測で他のクラスより自分の子どものいるクラスのほうが進行が遅いと書いているところや、障害者手帳の扱いなどから推測するところです。自分の推測に根拠がなくても、どこかに不公平感があると思わなければやっていけないという考えがありそう。

相手に有無を言わせぬ、追い詰める目的での疑問の「?」を多用しているところから、心の余裕も感じられませんね。結構追い詰められているんじゃないかと思う。たとえば、小1の壁とか。

そういう状況だから、たまたま検索で引っかかった2015年10月のなないおさんの記事に2016年5月20日に、愚痴と鬱憤晴らしのつもりで書き込んだんじゃないかなと、これが動機の推測です。

文章の前半ではn=1の卑近な例を書いているのに、後半ではどんどん一般化していき論理が飛躍していくので、中身をちゃんと考えて書いたというより、筆が乗って書いたという感じがあります。書き切った爽快感はあるけれど、これだけ論理が飛躍していると、ブログの書き手であるなないおさんから回答が来るのは想定していないのではないかという印象です。たぶん、回答を読むのは怖い。攻撃はするけど反撃は怖い

 

と、こんなことを思いました。もちろん全部推測です。ただ、こういう推測が自然と頭に思い浮かんできちゃうんですよね。相手の背景や意図を推測している時間が楽しい。

人を全面的に受け止めることができず苦しんでいる方がいらっしゃるなら、別にアドバイスということでもないんですが、誰かの発言について「うわー、この人こんなこと言ってる! 一体何があるとこういうことを言いたくなるんだろう??」みたいな好奇心で、推理小説を読む感じで解きほぐそうとすると、自分の感情を置いて対象をウォッチできるんじゃないかなという気はします。それをやるかどうかはもちろん各自の判断として。

寄り添うかどうかというのは単に技術的なものであり、受け止めるのも受け止めたところで別に肯定するとか、賛同するというものではないと考えると楽ですかね。受け止めた上で、相手を批判してもいい。ただし、人格攻撃をしない形で。

 

これは先日のこの記事とも絡むところですね。

ちなみに、この記事でご質問に回答したニャートさんがたまたま同じく5/21にこんな記事を書かれていました。

こうした自分の経験から、引きこもりやニートの人が「気楽に」参加できるつながり(外からの手)が作れたらと思っている。

(中略)
まだ準備はできていないけど、いつかはこのブログを通して、そうしたつながりを作ったり、既にある活動を取材などで支援したりしていきたい(もし何かいいアイディア等あれば、TwitterのDM等で教えていただけると喜びます。お金儲け目当ての方はごめんなさい)

既にある活動として思い浮かぶところでは、id:phaさんのギークハウスプロジェクトや、 カドカワのN高とかでしょうか。ニャートさんの編集経験があるという強みからすると、取材をしてブログに書かれるのは面白い試みだと思いました。楽しみです。