実家は二世帯住宅でした。
※以下の話では実際の時系列とは異なる部分があります。この点ご了解の上お読みください。
自分は祖母のスペースに遊びに行っては、祖父との出会いやどうやって父たちきょうだいを育ててきたのか、苦労話を聞いていました。祖母の苦労話は、戦中世代であればあまり珍しいものではなかったかもしれませんが、子どもを全員有名大学を卒業させたという一点については、祖母の自慢だったようで、父たちきょうだいの進学費用をいかに工面したかという話は何度も聞きました。祖父も、祖母も二人ともバカみたいに真面目で、趣味らしい趣味はそれほど多くありませんでした。祖母に関しては、強いて言えば詩吟でしょうか。子どもが大学を卒業してお金がかからなくなっても、祖父母は働き続け、そうして貯まったお金を自分たちのために使うのではなく、父たちきょうだいの結婚式の費用や、家の建築費用を出していました。
祖母は、話を聞くたびにお金やお菓子を渡そうとしてきたため、毎回断るのが面倒でした。子どものながらに、祖母の話を積極的に聞いている孫は自分しかいないということは理解していましたので、祖母はなかなか人に語る機会がない話ができるのが嬉しいのだろうと思っていました。ここまで書いて、一つ間違いがありました。祖母の自慢は子どもたちの進学だけではなく、昔、とても美人だったというのもあります。確かに白黒写真の中の祖母は可愛く見えましたが、自分の目の前にいる祖母は、丸くてぽっちゃりしていて、昔の面影は感じられませんでした。
大体、祖母の話を聞くのは、自分が学校から帰ってから夕方までの時間で、母が夜ご飯ができたと呼ぶのが話を終了する合図でした。両親が祖父母と食事をするのは、年に数回の記念日ぐらいなもので、ほとんど食卓が一緒になることはありませんでした。そして、記念日の料理も大抵母が作っていました。
そんな中で、祖母の料理を自分が食べる機会がまったくなかったかと言えば、たまに、母が仕事で遅くなる時に、祖母のスペースで話を聞いた流れで夕食を食べることがありました。
祖母の料理は美味しくありませんでした。
当時は、とにかく美味しくないことだけは分かっていて、気持ち悪いと思いながらも、祖母に美味しくないなんて言えず、我慢して食べていました。メインの食事が美味しくないのであまり多くは食べず、仏壇にお菓子やフルーツが置いてあるときには、それを頂戴とねだったものです。
祖母の料理が根本的に美味しくなかった理由は、今になって思い返すと、大きく以下の四つによるものだと考えられます。
- 一つ目は、冷凍した食材はいつまでも食べられると信じていたこと。いつのものだか分からないおかずが解凍して出てくるし、肉や魚は冷凍焼けして酸化していた
- 二つ目は、食材に合わせた調理をしないこと。とにかく何でもお好み焼きにするし、天ぷらにする
- 三つ目は、揚げ物がベチャベチャしていること。油切りがよくされていない
- 四つ目は、味付けが濃いこと。ソースやケチャップなど調味料がとにかくたくさんかかっている
この四つの要素によって出来た料理を想像してください。胸焼けしてきませんか?
よくあるメシマズエピソードだと、何か特別な食材を利用するとか、創作料理を作るとか、そういうエキサイティングな要素がありますよね。祖母の料理に驚きがあることはまずなく、見た目はほとんど茶色で、鮮やかさはなく、地味に気持ち悪く、美味しくないものでした。
勘の良い方であれば、どうして祖母の料理がこのようなものになってしまったかもう分かっているのではないでしょうか。
祖母は、父たちきょうだいを働きながら食べさせてきました。家事の中での炊事は全て祖母です。食事にかけるお金と時間はあまり多くないが、さりとて子どもには、野菜や肉を食べさせたい。そういう状況であれば、食材は安い時に大量に買う。お好み焼きや天ぷらにしたら大抵のものは(食感は置いておいて)食べられる。油切りをあまりしないのは時間がないから。味付けが濃いのは、腐敗や味の悪さを誤魔化すため。こういう料理を数十年続けてきたわけです。
母と結婚後、母の手の込んだ、美味しい料理に慣れた父は、祖母の料理を食べることは決してありませんでした。たまに法事で親戚が集まることがあり、祖母が料理を振る舞おうとしても、親戚は誰も手をつけず、店屋物を注文して食べていました。そんな時に祖母の料理を食べていたのは、母と自分の二人だけでした。「せっかく、お義母さん/お祖母ちゃんが作ってくれたんだから、食べないともったいない」と。
その後、祖父を亡くした祖母は、一気に痴呆が進み、火事になっては危ないからとコンロの使用が禁止されました。食事は母が用意しても、薄味だから口に合わないと、コンビニに通っては、コロッケや唐揚げを買って帰ってきたそうです。祖母は糖尿病でしたから、そんな食生活をすることに、祖母の介護をしていた母はいい顔をしていませんでしたが、祖母の介護には一切関わらなかった父が「好きなものを食べて死んだほうが母さんも幸せだろう」と言い、老人ホームに入るまではそんな食生活を続けたそうです。老人ホームは、母が介護に限界を感じていたにも関わらず、父のきょうだい家族は何の手伝いもしなかったため、母と自分が手分けをして探しました。
祖母が老人ホームに移る時に、祖母の荷物の整理を手伝いました。祖母は詩吟用の良い着物がいくつか残っていました。老人が利用しやすいように簡単リモコンと一緒に自分が選んであげた大型のテレビは、父が欲しいと言い、父の部屋に運びました。冷蔵庫にはいつのものか分からないお菓子、冷凍庫にはいつのものか分からない肉やコロッケが入っていました。
老人ホームに入った祖母は、食生活が改善されたせいか、段々と痩せていきました。ホームでたまにだけ食べるのが許される、おはぎやお団子を楽しみにしていたそうです。最期はあまり苦しまず息を引き取ったと聞いています。仕事を休んで列席した祖母の葬儀では、小さなお棺に収まっていた祖母は、自分が子どもの頃よく見ていた祖母とは別人でした。自分がよく知っている祖母は、遺影の中の祖母でした。
ということで、料理特集第三弾『私の祖母(父方)はメシマズ』でした。次回は、『姑と料理』です。
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料理特集第一弾。
料理特集第二弾。