斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

2分の1成人式に関する私の考えは「感謝の強制は不快」

この記事が話題になっていました。

2分の1成人式、広がる 「感謝の言葉」苦にする子も:朝日新聞デジタル

まだまだ歴史の浅い行事であるものの、反応の多さからも2分の1成人式が広まっていることがうかがえました。

ネットで検索すると2分の1成人式への意見は多々見られます。サンプル数が増えて問題になることはないでしょうから、私のスタンスも書いておきます。

ポジションを明確にしておきますと、私は子育て中の親であり、離婚はしておらず、子どもは私と血縁関係があり、子どもは私が見る限り私たち親からは虐待されていません。その前提での、2分の1成人式への私見です。

 

2分の1成人式とは何か?

一応説明しておくと、成人式の2分の1ということで、子どもが10歳になったタイミング(もっぱら小学校4年生)で開かれる学校でのイベントです。規模感やプログラムは学校によって違うものの、以下のグラフのように合唱・スピーチ・保護者への手紙が子どもから親に披露されることが多く、また親からは子どもにメッセージを贈ることもあります。 

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※画像は、いまや定番化しつつある小学校のイベントに!「2分の1成人式」とは?|ベネッセ教育情報サイトから

 

感動するかしないかの2択なら感動すると答える

ベネッセは定期的に2分の1成人式に関する親へのアンケートを実施していて、基本的には感動する親が多いことが確認されます。

私も感動するかどうかと問われれば、基本的に心が動くことがあまりない人間なので、何かに感動したとアンケートを答えたことはない人生を送ってきましたが、2分の1成人式自体には感動すると答えます。

学芸会でも、運動会でも、文化祭でも、学校行事というのは、子どもの学習機会として行われる一方、そのイベントを通して子どもが成長しているのを親が見る機会として提供されている面があります。

子育ての楽しみの一つに、子どもの成長というのは私にはありますから、学校行事で子どもの成長を見るのも楽しいものです。時には、思わぬ子どもの能力開発が行われ、子どもの意外な一面を垣間見ることができるという印象はあります。

従って、2分の1成人式に限らず、運動会でも、そして授業参観でさえも、何らかの催し物が学校で開かれ、それに参加し、子どもが自分が普段見ている子どもと違う一面や成長を見せていると、私の普段は動かぬ心も動きます。

  

親への感謝や子への感謝を学校に強制させられるのは不快

ただ、2分の1成人式の内容が、子どもから親に感謝を表明するものが含まれているものであれば、私は不快です。満足しません。気持ち悪い。

10歳ぐらいになると子どもは親への気持ちを表立って口に出さなくなりますから、そういうものを表現させる場に、親からの需要があるのは確かでしょう。

ただ、それが学校によって演出されたものだと、学校の型にはめられたものになりがちで、子どもの成長を垣間見るという意味では違う種類のものです。読書感想文のように「とても面白い本でした。○○な場面を見て、私も友達にしたことを思い出し反省しました」みたいに、強制された、型通りの感謝の気持ち。

2分の1成人式で子どもが親に手紙を書くとして、子どもが親に何を書いてもいい、何を表現してもいいということならいいですけど、そんなものは表には出てきませんからね。子どもから親への手紙に「お母さんのことは別にどうも思っていません」とか「あのとき叩かれたのが嫌だった」とか「なんでいつも喧嘩しているの。悲しかった」とか書いてあったら、先生が検閲しますから(せざるをえないから)。親の目に触れるのは、先生の目を通して加工されたものです。

卒業式で「おとうさん、おかあさん、ありがとうございました」ぐらいが短いメッセージで言われるぐらいならまだいいですけどね。親や先生に喜ばれるように自分の気持ちを濫造する経験を子どもにさせたいとは思いません。

 

学校が家庭の事情に配慮ができるとは信じていない

私自身に直接関係はしない違う論点として、事情がある家庭の子どもに2分の1成人式でどこまで配慮ができるのかというのがあります。

主には、親がいないとか、虐待が行われているとか、そこまでいかなくても親子が不仲とか、親が子どもに無関心とかですね。そういう事情がある家庭の子どもに画一的に親への気持ちを示す機会を設けさせて、先生が他の生徒を含めて適切に指導できるのかという論点。

「そういう子どものためにも親との絆を持つ機会になるんだ!」と主張する人はいるかもしれません。ただ、私はそれほど楽観的ではなく、結果としてそういう子どもが辛い経験をする機会になってしまうことが多いと考えています。

なぜなら、先生による配慮が適切に行われることができるとは信じていないからです。先生の能力不足というより、それほどスーパーマンではないと、アラフォーでそれなりに人生経験がある今となっては思うからです。

昨今は学校の教師に対する負担が重くなっていますからね。そして、先生は虐待のプロでも暴力のプロでもない。特殊な訓練を受けているわけではない。

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配慮をしなければいけない状況が増えれば増えるほど、先生は疲弊すると私は考えています。2分の1成人式をやるのであれば、先生が配慮をしなければいけないイベントや催しは含まないほうがいい。

 

締め

ということで、私は、感謝の強制や、子どもの家庭事情を配慮しなければならない要素があるような2分の1成人式であれば反対という立場です。

しかし、この種のイベントはやり始めると、声の大きい親が登場し、感謝の強制を喜び、事情のある家庭を無視するような事態を学校に期待しがちです。学校側は、子どもの教育のためにどうして行うのかをしっかり定義し、声の大きい親と上手く付き合う覚悟をした上で、2分の1成人式をやることを検討しないと、あとあと大きな負担になると思います。

やり始めたものをやめるのは、やり始めるときよりも苦労することがあります。

以上、本題です。以下、余談です。

 

 

 

余談

思い返せば、私は子どもの頃に親に感謝した覚えはありません。成人式のときでさえ、「親が喜ぶのであればやってやらなくもない」というスタンスで参加しました。別に親が嫌いだったというわけでも、何らかの事情があったわけでもなく、単に、感謝の気持ちが私の中にはなかったのです。

母の日や父の日や両親の誕生日にプレゼントは渡していましたが、それも親が喜ぶだろうなということで、自発的な感謝の気持ちで行っていたわけではありません。

親に多少の感謝を持ち始めたのは、家庭環境が主な原因で働くのに苦労している人々を多く見聞きし、また、自分に子どもができて子育ての手間を多少なりとも感じた、ここ10数年の話です。

自分が実感し始めたここ10数年は、積極的に親に感謝の気持ちを伝えています。