斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

子どもとお風呂入るの楽しくないこともないけど、一人で入ってくれたほうが楽

いつものようにエゴサーチをしていたら、

お願いします。topisyuさん。釣り判定してください。こんなキモい父親なんて..

お願いします。topisyuさん。釣り判定してください。こんなキモい父親なんていないと言ってください。不幸になることが確定している娘なんていないと言ってください。

こんな依頼を見つけました。

釣りか釣りじゃないか

この記事が釣りか釣りじゃないか判定して欲しいそうです。

釣りかどうかで言えば、たぶん、釣りじゃないんじゃないかと思います。文体云々というより動機の側面で、男親を馬鹿にするために書いている割には悪意を感じるところが少ないので。釣る気ならもっと何とかできます。手ぬるい。 

依頼の真意は釣り判定じゃなくて……

実際のところ、この依頼の真意は、釣りかどうかの判定というより、こういう人がいない事実をサポートして欲しいということなんでしょうけど、いるかいないかで言えば、結構いるんじゃないかと思います。

メンタリティとしては、結婚の挨拶に行った時に「娘はお前にやらん!」と怒る頑固親父とそんなに変わらないから。子どもを愛玩動物とか所有物扱いしたり、コントロールしようとする親は結構ちゃんといます。FacebookやTwitterやブログで子どもの断りを得ないで、子どもの写真を全世界に公開している人だってたくさんいるじゃないですか。幼児期から徹底的な英才教育を施そうとする親もいる。根っこは同じ。 

コントロールする親に育てられたら不幸確定?

不幸になるかどうかで言えば、この男親からの性的虐待があることはなさそうだし、その人自身が幸せになるか、不幸になるかというのは、その人の生き方によるところもあるから、あんまり"不幸になることが確定している"なんて決めつけられないと思います。

レイプされたら不幸確定、痴漢されたら不幸確定、いじめられたら不幸確定って、本人が不幸に思うことはあっても、他人がその人の人生を不幸だと決めつけちゃったら、その人は人生否定されたみたいになっちゃいますし、結構気を付けた方がいい言葉です。

不幸な人はいないで欲しい、こんな人はいないで欲しいという発想は、気楽に人生生きる上では時には必要ですけどね。それが強くなりすぎると、例えば、自分に好ましいもの以外は排斥するみたいな排他精神に繋がることがあります。存在しているものの否定って結構な暴力行為なので、注意したい。 

子どもが親を邪険に扱わなくするための効果的な方法

ちなみに、この男親の人は、娘に邪険に扱われないように、娘との関係ばかり気にしてますけど、これについては、しんざきさんが「夫婦仲良くすること」が一つの答えと書かれています。これは同感。

男親が子どもとの関係を将来に渡ってよくするために必要なたった一つのこと: 不倒城

  • 両親の仲が良い = 家庭内が安定しているということが子どもの心理的安定性に寄与する
  • 父親がいない間でも、子どもが父親の褒め言葉を聞ける
  • 子どもの成長に従って父-子ども間が一旦疎遠になったとしても、家庭内でちゃんとポジションがある

子どもが親のどちらかを嫌いになるには、(思春期の親離れのタイミング以外では)親同士がいがみあってたり、親が一方の親の悪口を子どもに浴びせまくっていたりするというのは結構重要な要素ですよね。

対子どもに対してフェアに真剣に楽しく接するというのは前提として、親同士が仲良くしていることは、子どもとしてもその家庭が居心地よく感じられますから。 

それは誤解なんじゃ……? 

ちなみに、関連してこんなブログ記事もあったので読みました。

少し気になったのが、

年頃の娘と風呂に入る自分を肯定したがる増田たち - はてこはときどき外に出る

返事が来た。率直にいってこれを読んでとてもぞっとした。

中2まで娘とお風呂に入ってたけど、反論させてください。

これは全く問題が異なります。重要なのは性的な目線を持っているかどうかでしょう。 息子が妻の裸を見て欲情する、もしくは妻が息子の裸を見て欲情するのであれば嫌悪します。 どちらも持っていないのなら、良い裸の付き合いだと思いますよ。 私が娘とお風呂に入っていたのも、お互いが性的な目線を持っていないという前提があったからです。 もし娘が性的な目線を私に向けていたら私は一緒に入りませんでしたよ。そして自分の方は自分で分かっていますので。

増田は「性的な目線」さえなければ父親と娘は混浴OKだが、息子と母親に関しては「全く問題が異なる」、つまり息子と母は互いを「性的な目線」で見て「欲情する」かもしれないと思っている。でも自分は父親だから違う。だからOK。母親と息子も「性的な目線」で「欲情」しなければ「良い裸のつきあい」でOKだと。断固「性的な視線で」「欲情」が介在している風に父娘を見るなと。

この部分。

ここの、

 増田は「性的な目線」さえなければ父親と娘は混浴OKだが、息子と母親に関しては「全く問題が異なる」、つまり息子と母は互いを「性的な目線」で見て「欲情する」かもしれないと思っている。

 これは、この回答を、

「息子がそうやって妻と風呂に入っていても裸のつきあいいいなと思うかどうか知りたい。」

これは全く問題が異なります。重要なのは性的な目線を持っているかどうかでしょう。

誤解しているように思います。

"全く問題が異なる"というは、"男親と娘、女親と息子という対比をするのは問題設定が違う"という意味合いじゃないですかね。そう解釈すると文意が通る。ですから、この部分を使って、これを書いた人が、女親と息子が性的な関係性を持ちやすいと考えていることを補強するのは、ちょっとイマイチかと思います。 

締め

最後に我が家の話でも書いて終わります。

子どもとお風呂に入るのは正直言って面倒です。できれば一人で入ってほしい。でも、自分でお風呂に入れない時期があるのは事実なので(端的に言えば放っておくと死ぬ、もしくは、体を洗えない)、仕方なく、精一杯楽しむようにしています。

何にせよ、子どもには親抜きでの楽しみを色々見つけていただきたいところです。  

※これは前にも紹介した、子どもに基本的な生活習慣を身に付けてもらうのにお勧めの本。