斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

息子の親権を失った男性からお願いされたので『バケモノの子』を観てきました

先日、細田守さんの監督作品の『バケモノの子』を観てきました。

元々、『時をかける少女』も『サマーウォーズ』も『おおかみこどもの雨と雪』も映画館で観てきましたし、いつか観に行こうかなと思っていたところ、タイミングよく、離婚して息子さんの親権を失った男性から「バケモノの子を観て、こんなのが親子の話なんて納得できませんでした。モヤモヤしたので是非観てきて下さい」と依頼がありました。(この男性が親権を失ったタイミングがよかったわけではありません。)

ということで、今回は、親子の物語ということに焦点を置いた『バケモノの子』のレビューをします。ストーリー自体にはそれほど触れないので、公開情報以上のネタバレ要素は少ないと思いますけど、未見の人はご注意ください。

バケモノの子

(C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS

ストーリー概要

親子の物語というとで、関係しそうなあらすじを書くとざっくりこんなところでしょうか。

『 世の中は、バケモノの世界と人間の世界に分けられていまして、バケモノ側からは人間の世界にちょくちょく遊びに来ることはできても、人間側からはバケモノの世界にはよほどのことがないと入れないということになっています。

主人公の9歳の蓮という少年は、両親が裁判離婚し、親権を取った母親は交通事故で死にます。このため、蓮は、本家の跡取り息子として母方の実家に引き取られることになりますが、母方の人間が気に食わず、家出をすることになります。

蓮が家出をして、渋谷をフラフラしていたところ、バケモノ世界で悪い意味で名の知れた熊徹というバケモノに出会い、弟子入りし、バケモノ世界で拳法修行に明け暮れることになります。その後、ひょんなことから人間の世界に戻る機会があり、本籍を確認することで本当の父親の所在を知ることになったりします。 』

こんなところです。

ストーリーからも推測できる通り、蓮と熊徹の関係は、疑似親子のように描かれています。邦題のタイトルが『バケモノの子』というのは、色々含意があるんでしょうが、一義的には、『バケモノ(熊徹)の子=蓮』ということで付けられていると考えれます。英題は、The Boy and The Beast。(美女と野獣はBeauty and the Beastだからたぶんこれを意識しているんでしょうけど、これでは、邦題と英題とで受ける印象が変わってしまう。)

熊徹と蓮の親子関係

熊徹は蓮に名前を付けます。9歳ということで九太。この辺は千と千尋の神隠しに近いところがありますね。新しい世界で、新しい名前で生きる。

熊徹は蓮に拳法を教えようとしますが、本人が我流でやってきたことと口下手であるために、上手く教えることができません。やる気はあるようで、「九太のために外で働いて生活費を稼いできてやっているのに、あいつはこっちの苦労は分かってくれない」とぼやいたりします。

蓮のほうもはねっかえりが強いのですが、人間の世界では居所がなく、バケモノの世界でもどう生きていけばいいか分からない中、強くなりたいと願い、炊事洗濯掃除をしながら、熊徹の動きをマネして徐々に拳法を習得していきます。蓮のまねび方には周りのバケモノも感嘆し、蓮が熊徹に、熊徹の拳法の我流ならではの隙の多さを教えることになったりもする。

この辺の親子関係というのは、友達親子っぽいところがあります。親が子どもを一方的に教えるのではなく、親子が友達のように一緒に成長していく感じ。蓮が成長する過程では、多くのバケモノと一部の人間が色々と教えてくれるので、熊徹だけが蓮を育てているということではありませんが、熊徹との関係性が一番深く描かれています。 

花が母親としての理想像なら、虎徹が父親としての理想像?

それで、モヤモヤする人がいる理由があるとすれば、これは、『おおかみこどもの雨と雪』でモヤモヤした人がいたのと同じ構図だと思います。

おおかみこどもの雨と雪では、花という女性が不必要に苦労を選択し(演出上はさせられ)、多くの人に「こんなのを理想の母親像として設定されるとしんどいなぁ」とモヤモヤを植え付けました。 

バケモノの子についても、熊徹の姿が理想の父親像みたいに設定されるとしたら嫌だなぁと思う男性は、自分にこの映画を観るように依頼された人のようにいないわけではないと思います。特に、いわゆるイクメンな方々はモヤモヤする可能性はありますね。

何しろ、熊徹の父親像というのは、昭和のステレオタイプな父親ですから。ほとんど怒鳴ってばかりで、外でお金を稼いでくればいいと思っていて、自分から子どものに何か教えようとしない。でも、子ども側が勝手にマネしてくれて、懐いてくれたらたら喜ぶ。子どもがペット感覚に近い。(この表現はこの表現で、ペットを家族と考えている人からは怒られるでしょうけどね。)

子育てにしっかり関わっている父親からすると、熊徹を理想の父親みたいな扱いをされたら、何だよと思う。依頼された男性も、子育てに関われない父親視点で、自分の子どもがこういう育てられ方をされていて、それが理想みたいに描かれていたらモヤモヤするところがありそう。

フィクションではよくある父親像

ただ、この父親像は、少年向けのフィクションの世界では別に目新しいものではありません。代表的なのが、ドラゴンボールでの、悟飯とピッコロと悟空の関係性みたいなもの。ピッコロは悟飯を誘拐してサイヤ人との対決のため強制的に修行させるわけですが、悟飯はピッコロを慕っている。悟空は、悟飯に修行をつけさせるのは大好きだけど、悟飯の進路なんかには興味なし。

ストックホルム症候群 - Wikipedia

後は、『聖闘士星矢』の城戸光政や『グラップラー刃牙』の範馬裕次郎や『美味しんぼ』の海原雄山や『新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウもそうでしょうか。未成熟で野放図で自分の好きなことだけしている大きな子どもという父親たち。

これらのフィクション作品の父親たちに対するモヤモヤはほとんど見かけることが無いので、父親視点で、これが許せないとモヤモヤする人のほうが今は少数派ではないかと思います。『おおかみこどもの雨と雪の花』にモヤモヤする人を探すほど簡単ではない。

たぶん、背景としては、少年向けのフィクション世界での父親像としては古典的ということで受け入れられているというのもあるだろうし、父親というのはこれぐらい荒っぽい方がいいみたいな価値観もあるかもしれないし、まだ育児に深く関わっている男性が多くはないということもあるだろうし、色々だと思います。

締め

結論としては、イクメン男性が父子の物語として観ると少しモヤモヤするかもしれませんが、他の人からすると、そんなに引っ掛かるところは多くないんじゃないかと思います。逆に引っ掛かりがなさすぎて印象に残らないという作品と思う人が多そう。

ただ、売り出し方で、「熊徹と蓮の関係が父子の理想像!」としちゃったら、母親からも「ちょっと待って!」ってことになって、『おおかみこどもの雨と雪』でよく見かけた批判が巻き起こることもないわけじゃないとは思います。(CM等を見ていないのでその点はよく分かりません。

以上、本題です。以下、余談です。

余談

これまでの細田守さんの監督作品と比べても、引っ掛かるところがほとんどなかった本作ですが、観ていてずーっと気になっていたのは、蓮の両親がなぜ裁判離婚をしたかです。

裁判離婚をしたのは、身寄りがなくなった蓮を、蓮の母方の親族が引き取りに来た際に、「せっかく裁判もやって親権を取ったのに」と言っていることで分かります。ただ、蓮の両親が不仲だった描写が一切ないんですよね。裁判離婚って、離婚全体の占める割合では数%です。ほとんどの離婚は協議離婚で離婚が成立している。裁判離婚というのはよほど揉めたケースが多い。 

蓮にとってのお母さんはずっと優しい人です。久々に会ったお父さんも過去にお母さんと何かあったようには描かれていない。映画を最後まで観ても、裁判離婚までして離婚をしようとするほど色々あったことが読み取れない。そもそもなぜ離婚になったのか。

離婚自体は母方が無理やりさせたなんていうことがないわけではなさそうな、問題がありそうな母方の親族が登場します。ただ、この母方の人間は裁判離婚を世間体からやりたがらなさそうで、高い示談金を払って何とかするタイプっぽい。

物語の都合上、死んだ母親と実の父親もどちらも悪く描きたくなくて、でも実の父親と離れ離れにさせたかったんでしょうけどね。熊徹との相似形ということで、蓮の実の父親が昔アル中だったとか、仕事にかまけていたとか、そういう過去を後悔している描写があったら、生みの親も一人の人間として成長しているみたいな整理もできたと思います。