斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

子どもが小さい頃は察し良く相手してたけど、成長に合わせ察し度を下げていってる話

子どもが小さい頃は、それはそれは察し良く相手をしていました。

特に言語を解さない時期は、こっちが察しないと延々と泣き続けたり、ぐずりますからね。自分の意思を上手く表現できず、かつ、身体も上手く動かせない状態ですから、本人がしんどくならないように、そして、しんどい子どもの横にいるのが苦痛にならないように、気を付けていました。

具体的には、体調が悪いんじゃないかとかってレベルではなく、お腹が空いているんじゃないかとか、喉が渇いているんじゃないかとか、気温が合わないんじゃないかとか、それはもう子どもの表情・立ち居振る舞いから得られる情報を可能な限り収集し、過去の事例との比較対照でもって、子どもが不快になる要素を排除しまくっていたものでした。

Not happy

「なんやこのおもちゃ、おちてるがなー!」「おお、それは直します直します」

が、子どもが言語を解するようになり、そして、子どもの身体と精神が徐々に徐々に成長するに従い、こちらも徐々に徐々に意図的に察しを悪くさせるようにしていきました。

分かりやすい例だと、お願いの仕方です。

それこそ人語を解さない時期には、「んー!」と叫んでいたら、口を拭けってことだなと察し、すかさず口元を拭っていたもの。

言語を解すようになったら、「んー!」には反応せず、「くちー!」という単語が出ると口を拭うか、お手拭きを手に渡してあげる。

さらに、もう少し成長したら、「くちー!」には反応せず、「口を拭きたい」という主語の省略は目をつぶりつつ目的語と動詞を使ったら、お手拭きの場所を教えてあげる。

もう少し成長したら、「口を拭きたい」には「へー、口を拭きたいんだ?」としか反応せず(というかまったく反応しないこともある)、「口を拭きたいんだけどお手拭きの場所を教えてくれる?」とお願いして来たら、お手拭きを大体いつもどこに収納しているかを伝える。そして、「私があなたに場所を教えたことに対して、何て言うといいかな?」という質問を「ありがとう」という言葉が出てくるまで、何度も何度も言い続ける。

cry baby cry

「Switch、みんな持ってるのにー!」「つまり…どういうことだってばよ?」

こういう感じの察し度合いの調整を、子どものありとあらゆる言動に対し意識的に行うようにしています。ポイントは、子どもの成長段階に応じてスモールステップで調整することですね。本人がどうしてもできないときに、無理にステップを上げても、子どもはどうにも対応できないので。口で言うのは簡単だけど、親業的には非常に難しいなと思いつつ、日々やっています。

で、この想像するだけで七面倒くさいことを、日々の子どもとの生活においてやり続けている目的は、子どもがスムーズに親から独り立ちしてもらうためです。

例えば、客としてレストランに行って「水!」と大声を出すとか、結婚相手や恋人に対して「ん!」と茶碗を出しておかわりを促すとか、「今日のデート場所は特に希望はないよ」と言っておきながら自分の趣向に合わないところに連れて行かれたら不機嫌を前面に出しちゃう or 友達に後で「デート場所、まじ最悪だったんだけど!」と愚痴るとか、そういう、自立心をどこかに置いてきたような、察してちゃんの大人(おこちゃま)に、私の子どもがなってもらうのはよろしくないと考えています。

生きているとどこかで、人同士での助け合いというのは発生するものです。察しの良い親に甘やかされて、自立の芽を潰され続けて年を取ると、ただ年を取っているだけで、他人を尊重することができない、助け合うどころか他人に寄っかかりっぱなしの人間になるのは割とよくある。

私にとって、親業というのは子どもが自立するところまで支えていくもの(≒ 自立するために支えは少しずつ弱くしていくもの)だと定義しているので、こういう状態は避けたいんですよね。

本音を言うと、子どもに対し察し良く相手をするほうが短期的には楽です。だってそれまでの延長線上に過ぎないから。親の対応をじわじわ変えるというのは、相手の成長度合いを観察するだけではなく、親自身が自身の対応方法を変える必要があるわけですから。

いつもお手拭きを口元に拭っていたとか、お手拭きを子どもの目の前の分かりやすいところに置いておくとか、決まりきったルーチンというのは、続けるのは楽なものです。そのルーチンを続ける楽さはあっても、子どもがいつまでも”おこちゃま”でいることがないよう、子どもの状態に合わせて自立できるようにルーチンを修正する苦労をわざわざしている。

以上、ちょっと話が長くなりましたが、子どもに対し、親の支えを徐々に外すために、昔はめちゃちゃ察し良かったのを、じわじわと察し悪くするようにして、子ども自身でどう動けばいいか、必要に応じて他人に頼り感謝を表明することが当たり前かを学んでもらっているという話でした。

今日はこんなところです。ではでは!