斗比主閲子の姑日記

姑に子どもを預けられるまでの経緯を書くつもりでBlogを初めたら、解説記事ばかりになっていました。ハンドルネーム・トップ画像は友人から頂いたものです。※一般向けの内容ではありません。

子どもは良い環境にも悪い環境にもすぐに順応できる

虐待報道や子どもの事件・事故は目に入れないようにしています。理由は気持ちが引っ張られるからです。

 

子育てをするようになってから自分が変わったと思うところに、子どもに関することへの感度が上がったというのがあります。具体的には、

  • 自分の子どもを育てる上で必要な情報収集に熱心になる
  • 他人の子どもを街中で見かけるととついつい目がその子の動向を追ってしまう
  • 電車やバスで子どもがいるとつい笑いかけたり、変な顔をしてしまう
  • 映画やテレビや小説などフィクション作品で子どもがダメージを負うのを見ると辛くなる

こんな風になりました。それまでは子どもに関する興味関心は100あるうち5もありませんでした。それが今では30ぐらいにはなっています。劇的な変化です。

そして、当然といえば当然というか、新聞の社会面で取り扱われるような、子どもが犠牲になる事件・事故についても以前より目がいきやすくなりました。

 

子ども絡みの事件・事故というのは元々センセーショナルに扱われることがあります。人間誰もが子どもだったこともあり、自分の子ども時代に照らし合わせて感情移入しやすいというのもあるでしょう。自分はそれに加えて子育てをするようになってからは、自分の子どもが同じような事件・事故に巻き込まれたらと容易に想像できるようになりました。

そうすると何が起きるかというと、その事件・事故に引っ張られるようになります。非常に特殊なケースでもその事件・事故のことが頭から離れなくなる。何か対策をしなければいけないのでは?という思いが強くなる。

 

児童虐待については特に心を痛めている人は多いのではないかと思います。児童虐待件数は毎年増加しており、児童虐待絡みの報道も多くなりました。児童虐待件数はこの10年で3倍以上増加しています。

時事ドットコム:【図解・社会】児童虐待件数と通告人数

しかし、児童虐待件数は、児童相談所が警察等の児童虐待の通告に対して応じた件数であり、児童虐待自体が純増しているということを示す指標では必ずしもありません。要は、児童虐待に行政が対処した件数ということです。

以下のグラフは、児童虐待死、無理心中、出産直後の殺人及び遺棄致死という、児童が虐待絡みで死亡した件数の推移ですが、増加傾向にはありません。児童虐待件数が10年で3倍以上になる中、死亡件数は3倍どころか、増加もしていない。

虐待死

※グラフは警察庁『児童虐待及び福祉犯の検挙状況(平成26年1~12月)』より作成

この辺の話は、名古屋大学准教授の内田良さんのこの記事に詳しいです。

「児童虐待7万件超 過去最悪」のウソ――減少する虐待死、煽られる危機感(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

相談件数は急増し、死亡件数は減少している。これはけっして不思議な事態ではない。なぜなら、子どもを大切にする社会では、子どもの死亡は減り、それと同時に子どもが受ける小さな危険が次々と表面化するからである。安全な社会ほど、(小さな)危険が目立つ。「安全と危険のパラドクス」とでも言うべき作用がここに生じているのである。

内田良さんもこの記事の書かれている通り、悪くなったから良くするのではなく、悪くなっていなくても改善しましょうというのは、その通りです。虐待や犯罪は少ないほうがいい。被害者は少ないほうがいい。これはその通りです。

 

ただ、自分はそれを突き詰めていくことでのコスト増が気になります。交通事故での死亡者数をゼロにする、虐待をゼロにする、殺人をゼロにする、出産時の母子の死亡をゼロにする……少なくするだけではなくゼロを目指した時のコストは相当高いものになります。資源が増加しているならまだしも、今の日本は、人にしても金にしても資源が増えているわけではありません。資源が有限である以上、何かにコストをかけることは他のものにかけるコストを減らすことになります。効率的にコストをかけたほうがいいという発想が生まれます。

 

社会がどうあるべきか、何にお金をかけるべきかは、人それぞれ置かれた状況で異なりますから、何が正解だとか申し上げるつもりはありません。しかし、個人が個人の時間やお金や興味を何に注力するかというのは、当然個人がコントロールして良いものです。

 

私は、自分の子どもでない子どもの悲惨な出来事に自分の心の多くを砕くのは、自分の中でのリソース配分として必ずしも適切ではないのではないかと思うようになりました。我が子が第一であるということは前提として、社会的な出来事に何でもかんでも心を割くのではなく、統計情報も確認しながら、優先順位を付けて、社会の出来事を見たほうがいいのではないか。そう考えて、虐待報道や子どもの事件・事故は目に入れないようにしています。

 

しかし、そういう風にシャットダウンしているつもりでも、偶然目に入るものもあります。先日は、母親の彼氏に殴られて死んだ3歳の女の子が生前撮られた写真をインターネットで見かけました。写真の中で、目に殴られたようなクマをつけ、身体をギュッと固くし、下を向いてじっと俯いて正座しているその子と、その子が殺されたという情報が頭の中でセットになったとき、真っ黒いものが自分の心の中に広がっていきました。

 

この件は世間で大変話題になっていたと理解しています。その中で「やはり彼氏のような第三者が子どもを虐待しがちだ。実の親ならこんなことはしない」という言説が流れているのも見かけました。これこそ特殊な事件に引きずられた悪い例です。先ほどの警察庁発表の資料を読んだら分かる通り、虐待の加害者としての検挙者で、もっとも多いのが実父です。実の両親だから虐待をしないわけではない。実の両親が虐待をしないものだと信じていたら、実の両親による虐待は見過ごされやすくなります。暴力がしつけだとみなされてしまう。

 

そんなことを考えて、ある程度頭と心が落ち着いた頃に「そういえば、こんな風に子どもが正座できることを信じられない人もいるだろうな」とふと思いました。

 

子どもは人語を理解するようになると急激に色んなことができるようになるんですよね。オムツも外れますし、一人で寝られるようにもなる。ある程度大人の言うことにも従うようになる。特に女の子の場合は成長が早く、言葉を理解するのも早い傾向にあります。3歳児の女の子なら、虐待をされていなくても、親から「じっと正座をしなさい」と言われたら、できる子どもはかなりいます。

 

子どもは良いことでも悪いことでも影響を受け、そして、環境に順応しようとします。大人ならできないことも、できる。3歳からバレエはできます。ピアノも引けます。スーパー戦隊シリーズ40作品の全タイトルを暗記できます。友達やきょうだいや親の言葉をマネします。良いところで作用することも非常に多い。

一方で、暴力を受けてもそれに表面的には耐えられる。声を上げて逃げるのではなく、殴られるのに従うことができる。等の子ども本人としては無我夢中というか、自覚がないというか、主従関係を強烈に意識し、従った記憶が残る。ある程度歳を取って一般的な親子関係や、子どもの扱われ方を知り、その時になって自分が行われたことが世間から相当ずれていた、場合によっては虐待だったということを認識することがある……。これ以上は止めておきます。

 

子どもがやれるから、耐えられるからこそ親はやらせてしまうことがあるんですよね。だから、その結果は、子どもに責任があるとか、やらせた親が悪いとかそういうことを申し上げたいわけではありません。子どもならではの特性というのは、実はあまり知られておらず、それによって悲劇が起こることがあるんじゃないかということです。

 

表面的に耐えられているから、できているから、だから、大丈夫だということではないんですよね。

 

 

 

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今日の話は先日発売した電子書籍のQ26に関係します。 

Q26.「高校生の息子が卒業後は料理人になるべく調理の専門学校に通いたいと言っています。夢を応援したい気持ちもある反面、そういった専門職で生きていくことの困難さも想像できるので、潰しが効くような学部で四大に進んで欲しいとも思います。私はどうするべきでしょうか?」

回答について一応補足しておくと、子どもの決めた進路が親の負担になる時にも常にそれを推し進めるべきだと言いたいわけではありません。お金がかかる進路の時もありますしね。それならそうと子どもに話せばいいと思います。